「桜の咲く頃に」を読む

一周忌 3月14日
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遠くからアナウンスの声が耳に入ってきた。ドアの開く音に続いて、乗客がばたばたと降りていく気配がした。
 随分長い眠りから目醒めたような気がする。椅子に腰掛けたまま眠ったせいか、幾分体が気だるい。
 眠気眼を擦りぼんやりと眺めたホームは、明かりが煌々と灯っているのに、人影はまばらだ。
 どうやら夜更けらしい。ここはどこの駅だろう?
そう心の中で呟いた。
 次の瞬間、女は我が目を疑った。
 通路を挟んだ反対側のロングシートの窓ガラスに映っているのは、見慣れた自分の顔ではなかった。
 慌てふためいて座席に反対向きに座り、車窓に映る自分の顔をしげしげと眺める。
 依然と比べて幾分ほっそりした感じがする顔に、赤みがかった茶色のゆるふわなロングヘアが被さっている。
 カラーリングした覚えもないし、パーマをかけた覚えもないのに……どうしよう? こんな髪で登校したら、校則違反で注意されるだろうな。
 おまけに自分で選んだ記憶も誰かにもらった記憶もないニットコートに身を包んでいた。
 何だか自分が自分じゃないような気がして、怖くなってきた。
 元通りに座り直すと、ドアの上の液晶モニターで、ニュースに引き続いて天気予報が始まった。 
「あしたも寒いんだ」
 ふっと呟く。
 ふと日付けを見て気付いた。
 涼平が飛び降りてから5日が経っていた!
 涼平はあれからどうなったのだろう?  
 地面に倒れていた姿が、脳裏に鮮明に甦る。
 見舞いに訪れた記憶もなければ葬式に参列した記憶もない。事件の衝撃で記憶喪失に陥ってしまったのだろうか?
 そんなことに思いを馳せているうちに、ホームから電車が出ていく。
 かろうじて駅名を見ることができた。
 あたしってあんまりこっち方面に来ることってなかったけど、どこへ行ってきたんだろう? こんな時間に別の場所に移動してるってことはないから、きっと家路を急いでるんだろうな。
 あ、切符を買ってればそんなことすぐわかる。
 コートのポケットをごそごそと探す。切符は見つからなかったけれど、財布の中にカードを見つけた。
 自動券売機やカード発売機じゃ利用履歴が見れるけど、車内じゃどうにもならないな。
 そんなことを考えながら、通路を挟んだ反対側の窓の外を流れていく、無数の家々の明かりをぼんやりと眺めていた。
 すると奇妙なことに気が付いた。
 いつの間にか窓ガラスに自分の両側に座っている乗客の姿が映っていた。
 誰も乗ってこなかったから、駅を発車したときには、ロングシートの車内に自分一人が取り残されていたのに……。
 それがどういうわけか、両隣だけにとどまらず、ロングシート両端まですべて埋まっている。
 ダッフルコートを着込んだ牛乳瓶底めがねのオタク男、黒いコートを身にまとったゴスロリガール、ワンピースの上にモッズコートを羽織った女子大生風の女の子、ブラックのピーコートに身を包んだ若者……どうってことのないいつもの車内風景だ。
 ただ自分のどちら側を見ても、誰も座っている者はいない。
 身も凍るような戦慄が全身を駆け巡った。
 このものたちは一体……?
 悲鳴を上げたくても、そんなことをすればさらに恐ろしいことが起こるような気がして、怖くてできない。
 恐る恐る前方に視線を戻すと、車窓に映っているものたちに変化が現れていた。
 全員顔からすっかり血の気が失せている。蒼白を通り越して真っ白だ。頭から血をだらだら流したり、苦痛に顔をゆがめるものもいる。
 もしかしたら、自分と何らかの因縁がある、浮かばれないものたちなのかもしれない。
 でも、目を凝らしてよく見ても、見覚えのある顔は一つもなかった。
 怖くて、怖くて隣の車両に移ろうとしても、金縛りに遭ったかのように立ち上がることすらできない。そのまま目をつぶっているしかなかった。
幾つかの駅に停車した後、駅名を確かめるため目をそっと開けたときに窓ガラスに映っていたのは自分一人だった。同時に足の自由も戻っていた。
 電車を乗り継いで、さらに幾つもの駅に停車した後、ようやく下車駅に到着した。
 日付けが変わろうとしていた。

 改札を出ると、すぐ目の前にミニ駅ビルが見えてきた。
2階に掛かっていた老舗喫茶店の看板が見当たらない。
 いつの間に撤退したのだろう?
 その代わりに、見慣れないオレンジ色の看板が見える。
 知らないうちに、カラオケ店が出店していた。
 他にも幾つか見覚えのない看板が、ビルの側面に掛かっている。
 見上げていた視線を下ろすと、いつの間にか円形の花壇ができていた。
 パンジーが色とりどりの花を咲かせている。  
 ほんの数日間で駅周辺の様子がすっかり変わってしまうなんて、信じられない!
 何かパラレルワールドに迷い込んだような、不思議な感覚に襲われる。
 駅から離れるにつれて、次第に街灯が少なくなり、人通りもまばらになってきた。
 薄暗い通りを少し心細い気持ちで歩いていくと、その先にそこだけ煌々と明かりがついているコンビニがあった。
 ほっと胸を撫で下ろしたのも束の間、金髪・茶髪の若者4人が、店の前の駐車場にたむろしていた。
 自分を見逃してくれることを祈りながら前をすばやく通り過ぎようとしたとき、恐れていたことが現実になってしまった。
「ねえ、彼女、もしよかったら、今からちょっとカラオケにでも……駅前に深夜営業の店あるから……」
 背の高い金髪男が近づいてきた。
 ついさっき看板が見えたあの店のこと言ってるのかしら? どうしよう?  
 胸が激しく鼓動する。
でも、次の瞬間、目に飛び込んできたのは、何かに怯えたような表情で後退りする男の姿だった。
「おい、お前どうしたんだよ?」
 すかさず駆け寄ってきた茶髪男が、不安気な声を出す。
 瞬く間にその顔にも恐怖の色が走った。
 その隙に乗じて足早にその場を立ち去る。
 しばらく進んで、後ろを振り返る。
追ってくる者はいない。
 ああ、助かった。
 今度こそ安堵の胸を撫で下ろす。
 一体あいつらに何があったって言うのよ? 前にどこかで会った覚えもないし……まさか、あたし車窓に映ってたあの浮かばれないものたちを連れてきたのかしら?
 でも、辺りを見回しても、そこにあるのは、ひっそりと静まり返った住宅街を弱々しく照らしている、まばらな街灯だけだ。

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