「桜の咲く頃に」を読む

「悩める子羊たち」 2月4日  
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 遊歩道を進んでいく車椅子の影が、夕闇に包まれて、次第に溶けていく。
 カラカラと車輪の回る音に重なって、カツンコツンとハイヒールの乾いた音が響いている。
「まさかこんなに早くチェリーに再会することになるなんて……」
「思ってもみなかったって? ついこの間会ったばっかだもんねえ。あたしの誕生日までまだ日にちがあるし……でも、あたしのこと想うと恋しくならなかった?」
 そう言うチェリーフラワーの唇は、どうして連絡してくれなかったのよとでも言いた気に尖っている、背を向けて座っているウインドライダーに見えるはずもないが……。 
「ごめん……それにしても、何でまたここなわけ?」
「だって、1回だけじゃ十分じゃないかもしれないから、念のためもう一度ウインドに自殺の恐怖を味わってもらおうと思って……」
「……本当のこと言うと、最近、俺の中で何かが変わった。俺もそろそろあっちへ逝ったほうが楽かなって思うことが多くなったんだ」
 表情を隠すように深く頭を垂れている。
「そんな……」
 チェリーフラワーはいつもの明るい表情を一瞬曇らせた。
 不意に気まずい沈黙が二人の間を流れる。
 ウインドライダーは何か話さなければと焦る。
「あ、あのさ……チェリー、そろそろこの辺で森に入っていくんじゃなかったっけ?」
「え、あたしは、いつももう少し先で入ることにしてるのよ。ちょっと見てよ。いくら履き慣れてるって言ったって、このピンヒールで深い森の中を歩くんじゃ、慎重にもなるよ」
 車椅子を止めてウインドライダーの前へと回り込んだチェリーフラワーは、ブラックのニーハイブーツのピンヒールをこれ見よがしに見せる。
 コートの下からすらりと伸びた脚が妄想を掻きたてる。
「確かに危なっかしそうだね……」
 そっと生唾を飲み込んだウインドライダーは、一番聞きたかったことを恐る恐る口に出してみる。
「ところでさ、この間初めて来たとき、女が首吊った桜の木の前を通ったんだけど……」
「……そういう一本桜があるって聞いたことはあるけど……」
 チェリーフラワーはそれだけ言うと、口を閉ざし、車椅子を押し続ける。
 ウインドライダーは思考の淵に沈んでいった。
 和菓子屋に行って以来、それまでぱっと現れては消えていった川面の泡のような自殺願望が、寝ても醒めても頭から離れなくなった。目を閉じれば、瞼の裏に焼きついたコールドブラッドとクイーンクリムゾンの最後の姿が迫ってきた。死ぬことでしか逃げ道が見つけられないと考えてしまうほど、追い詰められていった。
 そんなことはチェリーフラワーの前では口が裂けても言えなかった。
 前回と違う場所から入っても、自殺志願者を思い止まらせる看板が立っていた。
 ウインドライダーの緊張感が一気に高まる。
 足場が悪くなった途端、チェリーフラワーは足がもつれ、息が上がる。
 結局、あの忌まわしい一本桜の前を通ることもなく、あの全身ずぶ濡れの白い着物姿の女に遭遇することもなかった。
 だが、常にあちらこちらから誰かに見られているという感覚が付きまとって離れることはなかった。

 滝に無事辿り着いた途端に、ウインドライダーのそれまで張り詰めていた緊張の糸がプッツリと切れた。
 寒そうにしているチェリーフラワーの目の前で、差し出されたペットボトルの水を一気に飲み干す。
 喉から胃にかけて一気に流れ落ちた冷水は、体全体にぞくっと凍るような感覚を染み渡らせていく。
「へへへ、今日の滝水の味はどうかな? 予定より早く着いたんで、時間潰しにいつもより多めに汲んできたんだけど、よかったらもう1本どうだ?」
 ハングマンがへらへら笑っている。
 ったく、どいつもこいつも……滝水だって知ってりゃ飲まなかったのに……何人もの死体が浸かってた水だぞ! 足が不自由じゃなかったらぶん殴ってやるのに……。
 ウインドライダーは心の中で毒突いていた。
「今夜は定例オフ会じゃないよ」
 チェリーフラワーがウインドライダーの耳にそっと囁く。
「それって、どういう……」
 ウインドライダーがそう言い掛けたとき、メリーラムの少しばかりハスキーな声が響いた。
「それじゃ、早速始めましょう」
 前回同様、てきぱきと参加者を紹介していく。
 それまで夕闇の中に潜んでいた、見知らぬ男が姿を現す。
 牛乳瓶の底のようなめがねをかけ、伸び放題の黒髪を首の後ろで束ねている。無精髭のせいかふけて見えるが、他のメンバー同様20代の若者らしい。
「さて、1週間ほど前からサイトで『リガルド』ってコテハンよく見かけるようになったでしょう? ダーク・ファンタジ―漫画からきてるんだって。リガルド君の一日も早く逝きたいっていう希望に応えるため、今夜臨時会を急遽開いたってわけ。リガルド君にとっては、今夜が最初で最後のオフ会参加になるよね」
 紹介された男は、口を開こうともしない。蒼白を通り越した真っ白な顔をして、ただこちらを凝視している。
「お別れの時が来ました。それじゃ、みなさん杯を持ってください」
 メリーラムが、一人一人の杯にペットボトルの水を注いで回る。
 これも滝水なのだろうか?
 ウインドライダーの脳裏を一抹の不安がよぎる。
 横目でそっと他のメンバーの様子を覗うが、誰も特に気にしていないようだ。
「今夜旅立つリガルド君の成仏を祈って」
 メリーラムの音頭で全員同時に静かに飲み干す。
 リガルドは、キャメルのダッフルコートのトグルを一つ一つ外し始める。
 やがて水色のケミカルウォッシュジーンズにタックインされた、グラデーションチェック柄の青のネルシャツがあらわになる。
 脱いだハイテクっぽい黒のスニーカーを手に持って、滝の落ち口へ一歩一歩、慎重に足を進める。
 スニーカーをきちんとそろえると、何か忘れ物でもしたのか先ほどまで佇んでいた場所に戻る。再び姿を現したときには、何か長い物をを両手でしっかり握っていた。
 濃さを増しつつある夕闇の中で妖しげな光を放つ大剣を、リガルドはさっと天へと掲げる。人生最後の晴れ舞台だというのに、重さに耐えかね腕がぶるぶる震え出し、横顔が苦痛に歪む。
 一同じっと息を殺して見守る。
 チェリーフラワーは、繋いでいたウインドライダーの手を強く握り締める。
 時が止まったかのように空間が張りつめる。
「うわあああーっ!」
 飛び込む体制も取れないまま、断末魔の叫びを残して、リガルドは滝壺目がけて落ちていった。
 ウインドライダーとチェリーフラワーはその場に立ち尽くす。
 リガルドが味わった恐怖は二人の心の奥底に沈殿していき、漆黒の澱みを作り出していく。

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