「桜の咲く頃に」を読む

「悩める子羊たち」 1月24日
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陽が沈み、徐々に夕闇が迫ってくる。薄闇の空の色が青から濃紺へと少しずつ深みを増していく。
 道路脇の空地に車が一台駐車されている。
 繋がる二つの影が遊歩道に入っていく。
 どこかで鳥が鳴いている。
 カラカラと車輪の回る音に、靴音が続く。
「こうして車椅子押してるのって性に合ってるよ。俺人の目を見て話すのって苦手だから……」
「コールドブラッドさん、実は、俺他の自殺系サイトのオフ会に参加したことあるんだけど、会場がファミレスや居酒屋で、いつもあたりさわりのない話して帰ってくるだけで……」
 車椅子の男がぼそりと言う。
「ウインドライダーさん、今夜は勝手が違うって? うちのは自殺スポット巡りだから、ここなら死んでもいいっていう場所が見つかったら、死ねばいい。もし今夜その気になったら、手を貸すから……」
 車椅子を押す男の言葉には突き放すような響きがあった。
 いつもいつも死のう死のうと思ってはいるけれど、いざとなると死に切れないで先延ばしにしてきた。でも、今夜はそういう訳にはいかないのかもしれない。
 それにしても、ここはなんて薄気味悪いところなんだ。邪悪な浮かばれないものたちの息づかいが感じられる。今にもおぞましいものが木々の間から飛び出してきそうな気配だ。
 ウインドライダーが車椅子に身を沈めて物思いに沈んでいたところ、不意にコールドブラッドの声が聞こえてきた。
「ふ〜っ、遊歩道の中間地点まで来た。さて森の奥に入っていくとすっか」
「え!」
 一抹の不安がウインドライダーの脳裏をよぎる。
 その心の内を見透かしたかのように、コールドブラッドはさらに追い討ちを掛けるような言葉を浴びせる。
「こんな時間にこんなに深い森に入っていったら、元の場所に戻れなくなるんじゃないかって心配してんだろ? ここまで来て無事に生きて帰れるとでも思ってんのかよ」
「……」
 ウインドライダーは顔を上げようともしない。
「へへへへへ、冗談だよ。うちは強制自殺はやんないから。死に切れなかったら、後で誰かが送ってくから」
 そう言いながらも、にやにや笑っている。
 足が不自由じゃなかったらぶん殴ってやるのに……。
 ウインドライダーは心の中で毒突いていた。
 そして、むっとした顔で聴覚をシャットし、意識を視覚に集中し始めた。
 遊歩道から外れてすぐのところに、自殺志願者に呼びかける看板があった。
 そのまま少し行くと、樹木にすっかり取り囲まれてしまった。
 平坦な遊歩道とは打って変わり、コールドブラッドも車椅子を押すのがつらそうだ。
 薄暗さに目が慣れてくると、奇妙な光景が広がっていた。
 地表に露出した木の根が、地中から這い出してのた打ち回る大蛇のようだ。
 傾いてしまった木が、幹の途中で曲がって上に向かって伸びている。獲物を飲み込んだ大蛇のような力こぶが盛り上がっている。 
 どこまで行っても、似たような光景が延々と続く。
 方向感覚を失い、何度も同じ場所を通っているかのような錯覚に陥る。
 このまま森の中を彷徨い続けるのかと不安が増しつつあったとき、どこか遠くで水の落ちる音が聞こえてきた。そして、その音が近づくにつれて、生暖かい空気が流れてきた。
「いよいよこの辺からが隠れ自殺スポットだ。空気が重く淀んでる感じがするだろ? 何でも、2、3年前この木で首を吊った女がいるんだって。よくは知らないけど……」
 針葉樹と広葉樹が入り混じった森だが、そこだけ針葉樹が密集している中に、桜の木が1本立っている。
 言われてみれば確かに、首を吊るのにちょうど手ごろな大枝が1本伸びている。
「なんでこんな季節に桜が咲いてるの?」
 ウインドライダーは信じられないといったふうに呟いた。
 咲き始めたのはまだ数えるほどだが、つぼみは今にも咲きそうなほど濃いピンク色になっている。
 そのうち奇妙なことに気が付いた。
 最近移植されたはずもないのに、木の根元が一度掘り返され、埋められた跡がある。
 そして、ちょうど背の高い人なら手を伸ばせば届きそうなところまで、つぼみだけを残してきれいに葉がなくなっている。
 ところが、根元を見回しても落ちた葉はどこにもない。頭上を覆う鬱蒼とした木々の隙間からかろうじて洩れてくる月明かりを頼りに、いくら目を凝らしても、周りに虫の姿も、糞も見当たらない。
 誰かが葉をちぎって持ち去ったとしか考えられない。でも、何のために……?
「これ春に咲く桜とは違う種類なんだ。寒桜っていって毎年今頃開花するらしいんだ。おい、聞いてんのか?」
 頭上から響いてきたコールドブラッドの声に、ウインドライダーは夢から覚めたように我に返った。
「あ、うん……あの〜、会場までまだだいぶある?」
 ウインドライダーは怯えた声を洩らした。
 一刻も早くその忌まわしい木を離れたいのに、自分の思うように体が動かないのがもどかしかった。
「もうすぐ滝が見えてくるよ。そこが今夜の会場。今夜は月明かりが幻想的で、こういうタイプのオフ会にはもってこいだ」
「滝って?」
「華厳滝ほど高くないけど、知られざる自殺の名所ってとこかなあ? 案内板も出てないから、昼間でも訪れる奴は少ないよ」
 そこで会話が途切れた。
 静寂の中、湿った地面を踏む音と車輪が回る音が重なり合っている。
 やがて、周囲を囲う木々が途切れ、そこだけ何故か開けた空間に出た。
 ウインドライダーがふと見上げた夕闇の紺碧の空の中に、薄黄色の半月が浮かんでいた。
 視線を下ろすと、前方に白い着物姿の女が立っていた。
「あの〜、あれ……」
 こんな時間にこんなところで女一人で何をしているというのだろう?
 ウインドライダーは恐怖のあまり口をパクパクするだけで、それ以上言葉が出てこない。
「……オフ会を盛り上げる趣向じゃないのかなあ?」
 そう言うコールドブラッドの声も震えている。
 近づくに連れてその姿がはっきりしてくる。
 女は全身ずぶ濡れで、長い黒髪と着物から水滴が滴り落ちている。
 だが、辺りには雨が降った様子はない。
 まさかこんな時間に滝に打たれたなんてことはないだろう? 女の前を通り過ぎるとき、その肌が青白いというよりも透けているように見えた。
 身も凍るような戦慄が二人の全身を駆け抜けた。
 車椅子を押すスピードが速くなる。
「しっかりつかまってろよ」
 ウインドライダーは膝に顔を押し付けうつむいたままだ。
 逃げていく二人の後姿を目で追いながら、血のように真っ赤な口がにたりと笑っていた。

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