「桜の咲く頃に」を読む

涼平 三月九日  
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 5時限目は、学年最後の美術の授業として校舎屋上で写生会が行われる。
 生徒たちは、屋上へと続く階段を画材道具を持って駆け上がる。
 屋上へ出るドアには「立ち入り禁止」と書かれた札が貼ってあり、普段は施錠されていることくらいみんな知っていた。入学以来初めて出る屋上を目前にして、湧き上がる高揚感を抑えきれない。 
 弁当を食べたり、友だちと談笑したりするドラマや漫画の屋上シーンが脳裏に甦る。
 屋上には何かある……。
 そんな生徒たちの期待は一瞬にして裏切られた。
 普段閉鎖されているので、定期的に掃除もされていないようだ。
 コンクリートの継ぎ目には雑草が生え、此処彼処に鳥の糞が落ちている。
 がっかりした表情を浮かべながらも、幾つかのグループに分かれた生徒たちは、適当な場所に敷物を敷くと、まず構図を練る。中には早々と鉛筆で下絵を描き始めている者もいる。
 涼平はみんなの輪から一人離れて、鉛色の雲が低く垂れ込める空を、手のひらを上に向けて仰ぐ。
 今にも泣き出しそうだ。僕のために泣いてくれるのかなあ? 確か天気予報じゃ午後は曇りだったはずなのに。 
 そう呟くと、視線を下ろして辺りを見回す。
 どうせ自分はみんなとうまくやってけっこない。考えに考え抜いて出した結論だから、もう後戻りはできない。
 そう自分に言い聞かせると、転落防止用のフェンスに駆け寄り、金網に手を、そして足を掛けた。
 駐車場の脇にちらほら咲いている桜の花が見える。
 いくら忘れようとしても忘れられない、あの怒鳴り声が不意に耳に響いてきた。
 フェンスから下りて、両耳を手で押さえる。
 閉じた瞼に浮かんできたのは、闇に浮かぶあの鬼の顔だった。

 涼平が市内の児童養護施設に入所したのは、小学校に入学して間もなくの頃だった。
「激しく泣き叫ぶ子どもの声が聞こえる」と同じアパートの隣に住む主婦から警察を通じて市内の児童相談所へ通報が入ったのだ。
 児童養護施設では身の安全が確保され、3度の食事には困らなくなったものの、幻覚と幻聴に悩まされ、眠れない日々が続いた。
 母親が施設に付いてきたのだ。夜中に目を覚ますと、母親の狂気に満ちた顔が闇に浮かび、母親の怒鳴り散らす声や物が割れる音が耳に入ってきたのだ。
 母親に浴びせられた数々の罵声の内容から想像すると、それまで関係を持っていた妻子持ちの男から突然連絡が途絶えたときには、妊娠が進んでいて、安全に中絶手術ができる期間を過ぎていたらしい。「妻と別れるから結婚しよう」という甘い言葉を信じ、愛する人の子どもを授かるという喜びに浸っていた母親は、幸せの絶頂から、絶望のどん底に突き落とされたことになる。
 ある日を境に、不倫相手の携帯に電話しても、「お掛けになった電話番号は、現在使われておりません」というメッセージが流れるようになった。
 男の家まで押し掛けることはためらわれ、最寄駅で数日間張り込みをしてみたが、男の姿を目にすることはなかった。
 職場にも聞き込みに行ったが、「無断欠勤が続いているが、連絡が取れない」と告げられるだけで、何ら有力情報は得られなかった。
 男の消息がわからないまま、女手一つで育てていく覚悟も自信もなかったけれど、一人で子どもを産んだ。
 子育ては想像以上に大変だった。
 生まれるとすぐ保育所に預けたが、熱を出したり腹を壊したりする度に、遅刻・早退、時には欠勤せざるを得なかった。職場の同僚に露骨に嫌な顔をされながらも、どうにか乗り切った。時には悔し涙を流すこともあったが、女を捨て母親として精一杯がんっばっていた。
 だが、それも新しい男ができるまでだった。
 一転して母であることより女であることを選んだ母親は、人が変わったように涼平を邪魔者扱いするようになった。
 涼平が何も叱られるようなことをしていないのに、殴る、蹴るの暴行は言うに及ばず、子どもの存在を否定するような暴言も浴びせられた。
「お前を育てるためにママは必死で一人でがんばってきたのよ。わかってんの? それなのにお前ときたら、ママの幸せの邪魔するだけで……元々お前なんか望まれて生まれてきた子じゃないんだから、いなくなりゃいいんだ」
 口答えなどしようものなら、暴行がエスカレートしたが、黙り込んでも、泣いても、暴行は続いた。
 涼平にできることは、母親の気に障らないように、子ども部屋の隅でヤモリのようにじっとしていることだけだった。
 どんなことをされようとも、涼平は母親からの愛情が諦められなかった。だが、いつまで待っても得られない愛情は、やがて黒い染みとなって徐々に心に広がっていった。
 命が奪われる前に救いの手が差し伸べられたが、すでに心に取り返しのつかない深い傷を負っていた。

 校庭では体育の授業が行われていた。
 阿梨沙は、他の生徒に混じって持久走の準備体操をしていた。
「う、うわああ!」
 いきなり誰かが奇声を上げた。
 いったい何を見たのだろう?
 指を差している先には、人がばたばたと集まっている駐車場が見える。
 何があったんだろう?
 みんな一斉に駐車場に向かって駆け出した。
 ゼェハァと肩で荒い息をしながら到着すると、そこは緊迫した空気に包まれていた。
 アスファルトの地面に横たわっている生徒の周りを、事務職員や先生たちが固い表情でぐるりと取り囲んでいる。
 生徒の体が小刻みに痙攣している。うつぶせになっていて顔は見えない。
 頭部から流れ出た大量の暗紅色の血が、薄いオレンジ色の泡のような塊が飛び散っている地面にゆっくりと広がっていく。
 見覚えのある腕時計が制服の袖からちらりと見えた。
 阿梨沙の信じられないといった表情が、苦痛の表情に変わっていく。
 まさかこんなことって……あたしやだよー。
 心は叫んでいるのに声が出ない。
 間もなく救急車が到着した。
 救急隊が生徒の体を慎重に動かして担架に乗せる際、頭がごろりと動いて、血塗れの顔がこちらに向きを変えた。
 その瞬間、阿梨沙の意識は遠退いていった。

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