agijima_山南陸人ブログ1
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2021年09月17日(金)
【女官生姑魯妹】
○女官生姑魯妹

「琉球入学見聞録」巻三、官生(病故附)の項で藩相は姑魯妹について「姑魯妹、中山國人、入学之年闕(諸録誤以姑魯妹、爲官生、荒誕殊甚」と記し、汪楫・徐葆光・周煌の各々の使録で姑魯妹を女官生としているが、それは荒誕殊に甚しいものであり姑魯妹は女官生ではない、と諸録を批判している。一体、姑魯妹は汪楫・徐葆光・周煌等がいうように女官生だったのだろうか、それとも藩相が批判しているように女官生ではなかったのだろうか。そのこと及びその入監年を考察するのが本稿の趣旨である。
先ずはじめに、沖縄の先学は姑魯妹についてどのような見解をしているかを見ることにする。「沖縄一千年史」で真境名安興は次のように書いている。
『明史に「廿九年春使を遣はして来貢す。山南生の國學に肄ふ者歸省す。其冬復來る。中山亦塞
マ マ
官の子二人、及び女官生姑魯二人先後して來り業を肄ふ。其の華風を感慕すること此の如し。」とありて、亦女官生のことをいへるも、支那清朝の琉球官學教習藩相の著はせる琉球入学見聞録(巻三)を見るに「姑魯妹中山國の人、入學の年闕くとあり、下に諸録誤って姑魯妹を以て女官生となす荒誕殊に甚だし」として之を否定せり。蓋し或は然らん』と。
真境名安興は藩相の姑魯妹女官生否定説に「蓋し或は然らん」と同調する見解を示しながらも、完全には否定はしていないようである。沖縄の先学達の中で姑魯妹についての評価見解をしたのはこの真境名安興が最初であるが、真境名安興
の評価は推量の域を超えてはいない。
ところが、真境名安興より後の歴史研究者である仲原善忠が姑魯妹についての見解をその著作である「官生小史」で姑魯妹の入監年を洪武三十一
ママ
年と断定した上さらに『「明史」「中山沿革史」等女子ト誤ル。「入学見聞録」ソノ他ハ否定ス』と記し、姑魯妹を女官生とする説をほぼ完全に否定し、且つ真境名安興が明らかにしなかった入監年を三十一年としている。
真境名安興・仲原善忠よりさらに下って最近の研究者である阿波根朝松の「琉球育英史」に至ると、姑魯妹が女官生であるという説を完全に否定し、おまけに、妹は音借であるとする見解まで附するようになるのである。
以上、代表的な沖縄の官生の歴史を研究した歴史家の見解を見たが、姑魯妹についての沖縄での最初の評価者である真境名安興は姑魯妹を女官生ではないかもしれないとの推定の段階の見解を示したが、時代が下って、後の研究者である仲原善忠・阿波根朝松の時代になると、女官生ではないと断定的あるいは完全に姑魯妹女官生説を否定し、その見解は変化してきている。最近(昭和六十二年現在)はほぼ完全に阿波根朝松の見解が流布しているようである。
では、藩相を起点とした阿波根朝松の代に至って完璧に定着した観のある姑魯妹女官生否定説は、ほんとうに正当な見解なのであろうか。姑魯妹が女でなかったという評価は正しいのだろうか。
沖縄における研究者が、姑魯妹が女官生ではないとしたのは藩相の「琉球入学見聞録」の記述をその根拠にしたものである。そして、姑魯妹が女官生であるという根拠になるものもまた中国側の史書・史料である。従って、姑魯妹が女官生であるのか否かを考察するには中国側の史料の検討をする必要があろう。
ところで、姑魯妹について記した中国側の史料には「明実録」「野獲編・琉球女入学」「中山沿革志」「中山傳信録」「琉球國志略」「明史稿」
「古今圖書集成(方輿彙編裔典第一百巻琉球部)」「明史」「續文献通考」「琉球入学見聞録」等がある。一応、参考までに、その「資料」を載せて置く。
@「明実録」
洪武三十一年三月戊申朔
(戊申)、琉球國中山王察度、遣其臣亞蘭匏、押
撤都結致・毎歩結致・撤都奴侍、貢馬及黄胡椒等物、其世子武寧、貢如之、先是、其國遣女官生姑魯妹、在京讀書、至是、謝恩來貢、
A「野獲編」(琉球女入学)
洪武二十九年、琉球國入貢、先是、其國山南王
ママ ママ
遣其姓三五郎等及寨官之子麻著里等入大學、既三
年歸省、至是、復與貢使善佳古耶等來、乞仍入大學許之、至三十一年、其國中山王察度。遣其臣亞蘭匏等、貢馬及方物、先是、其國遣女官姑魯妹、在京讀書、至是、來謝恩、因而入貢來朝、外國如朝鮮號知詩書者、間游國學、或至登第、然未聞婦人、亦來中國誦向慕華風、至此、真史策未見
B「中山沿革志」
三十一年、王遣亞蘭匏等、貢馬及硫黄、世子武寧貢如之、女官生姑魯妹偕入謝恩、以昔常在京讀書也、太祖賜鈔有差・・・・
C「中山傳信録」
三十一年、王遣亞蘭匏等、貢馬及硫黄、世子武寧貢如之、女官生姑魯妹偕入謝恩、以昔常在京讀
書也、太祖賜鈔有差
D「琉球國志略」
三十一年、王遣亞蘭匏等、貢馬及硫黄、世子武
寧貢如之、女官生姑魯妹偕入謝恩、以昔常在京讀
書也、三月、太祖命以冠帯賜王、並賜臣下冠服。
E「明史稿」
山北王怕尼芝已卒、其嗣攀安知、二十九年遣使來貢、令山南生肄國學者歸省、其冬、復來、中山亦遣寨官子二人、及女官生姑魯妹二人、先後來肄業、其感慕華風如此
F「古今圖書集成」
洪武二十九年、琉球入貢、遣其國人及女姑入國學肄業。
按明外史琉球傳、洪武二十九年春、山北王遣使來貢、令山南生肄國學者歸省、其冬、復來、中山亦遣寨官子二人、及女官生姑魯妹二人、先後來肄業、其感慕華風如此
G「明史」
山北王怕尼芝已卒、其嗣攀安知、二十九年春遣使來貢、令山南生肄國學者歸省、其冬、復來、中山亦遣寨官子二人、及女官生姑魯妹二人、先後來肄業、其感慕華風如此
H「續文献通考」
二十九年春、令山南生肄國學者歸省、冬復來、中山亦遣寨官子二人、及女官生姑魯妹二人、先後來肄業、其感慕華風如此
I「琉球入学見聞録」
姑魯妹、中山國人、入学之年闕(諸録誤以姑魯妹爲女官生、荒誕殊甚)
さて、右の中國側史料に於ける姑魯妹の記述内容を分類すると、(一)明実録系、(二)明史稿系、(三)野獲編系、(四)琉球入学見聞録系の四つに大別出来るようである。
明実録系とは「明実録」「中山沿革志」「中山傳信録」「琉球國志略」等の系列の史料群で、その記述の特徴は、姑魯妹を女官生であると明確に規定してはいるものの、その入監年は記さず、先に在京読書した恩を謝するために洪武三十一年に來京したとする点にある。
明史稿系とは「明史稿」「古今圖書集成」「明史」「續文献通考」等の系列の史料群で、その記述の特徴は、姑魯妹を女官生であると明確に規定し且つ入監年を洪武二十九年としている点にある。
野獲編系とは、「野獲編」で、その記述の特徴は、女官生の存在を明史稿系の如く記述してはいるが、それが真実であるか否かを「真史策」で確認できないとして懐疑的に捉えているが否定はしていない点にある。
琉球入学見聞録系とは「琉球入学見聞録」で、その記述の特徴は姑魯妹を女官生であることを完全に否定し、入監年は「入學之年闕」として不明としている点にある。
右の中國側の史料に於ける姑魯妹の記述の系譜を図示すると次の如くになる。
姑魯妹 女官生であることを肯定 明実録系 「明実録」「中山傳信録」「琉球
國志略」(入監年の明記なく、三
十一年に在京讀書した恩を謝するた
めに來京したことを記す。)
明史稿系 「明史稿」「古今圖書集成」「明
史」「續文献通考」(入監年を洪武
二十九年とする)
女官生を懐疑的に捉える 野獲編系 「野獲編」(姑魯妹についての記述
及び入監年の記述は明実録系と同じ
女官生であることを否定 琉球入学見聞録系 「琉球入学見聞録」(「入
監之年闕」とする)  中国側の史料を見ると姑魯妹女官生肯定説の起点となるものが「明実録」で、女官生否定説の起点にあるものが「琉球入学見聞録」が唯一のものであることが分る。従って、姑魯妹が女官生であるか否かは「明実録」「琉球入学見聞録」のいずれの記述を信じ採用するかを検討することによって明らかにされるだろう。以下これを考察してみたい。
「明実録」について和田久徳は「沖縄大百科」で次のように記している。
「中央地方の諸官庁の記録類を主材料にし、根 本資料にもとづいて記述されているため『明実 録』は明朝に関する歴史研究にとっても重要な 史料である。」と。
この重要な史料でる「明実録」にももしかしたら誤謬はあるこも知れない。もし、仮に誤謬があるのであれば当然重要な史料であっても訂正されなければならないだろう。しかし、「明実録」は根本資料によって記述された史料価値の極めて高いものであるだけに、その記載の内容を否定・論駁するには、それに相当する史料価値の高い史料を引用活用して論理的に考察して訂正すべきであろう。もし、論理的な考証に基づいた論駁がなければ、「明実録」に記載された記述を妥当なものとして採用すべきである、と考える。
しからば、「琉球入学見聞録」の著者藩相は、姑魯妹についての「明実録」の記述を論理的に考証し、その記述内容を論駁しているかというと、そうではないのである。「明実録」に匹敵する史料を駆使して論理的に考証して論駁する手続をすることなく、ただ「姑魯妹、中山國人、入學之年闕(諸録以姑魯妹爲女官生、荒誕殊甚)」としているのみである。この藩相の記述は「明実録」記載の姑魯妹女官生肯定説を覆し得るような論理的考証はなく、非論理的な推量の域を出ない見解を披瀝したものであり、「明実録」女官生肯定説を覆し得たとはいえない。従って、「明実録」記載の姑魯妹女官生肯定説を妥当な見解であるとみるべきで、藩相の姑魯妹女官生否定説は棄却されるべきであると考える。
藩相を起点とし、阿波根朝松の代に至って完璧に定着した観のある姑魯妹女官生否定説は、藩相の説が否定棄却されたのであるから、藩相の説を根拠にして導引された沖縄の歴史家達の説く姑魯妹は女ではないという評価は当を得たものとはいい難く、次のように修正されるべきであろう。
『姑魯妹は「明実録」に女官生であると明記されているから、女官生である』と。
姑魯妹が女官生であることはほぼ確認できた。次に入監年について考察してみたい。姑魯妹の入監年について諸書の見解を示すと次の如くになる。
明実録系・・・入監年の記録なく三十一年に先 に入監したことに対する恩を謝 する爲に來京したことを記す。
明史稿系・・・入監年を洪武二十九年と明記。
野獲編系・・・入監年は明実録系と同じ。
琉球入学見聞録系・・・「入監之年闕」
沖縄の研究者
真境名安興・・明史を引用して洪武二十九を入        監年とする。
仲原善忠・・・洪武三十一年を入監年とする。
阿波根朝松・・仲原説を踏襲して洪武三十一年        を入監年とする。
姑魯妹の入監年については右に見たように、入監年不明、洪武二十九年、洪武三十一年の三つ説がある。果たしてどれが入監年として当を得た見解かを考察したい。
まず、仲原善忠の洪武三十一年入監説から考えることにする。
仲原善忠は「官生小史」で姑魯妹の入監年を洪武三十一年としているが、何を根拠にしているかをまず明らかにし、それによって導かれた見解が妥当なものであるか否かを検討していくことにする。
仲原善忠は「官生小史」で姑魯妹について記すに「明史」「中山沿革志」「琉球入学見聞録」を参照しているようであるが、「明史」は入監年を洪武二十九年としているので、「明史」は入監年の批定には参照されてない。また、「琉球入学見聞録」は「入監之年闕」としているので、これも参照されてない。従って、残りの「中山沿革志」に拠っていると考えられる。
「中山沿革志」は「明実録系」の史料で、これからは洪武三十一を姑魯妹の入監であると導きだすことはできない。先にあげた史料をみても明らかな如く、確かに「中山沿革志」の洪武三十一年の条に姑魯妹のことを述べてはいるが、そこには前に在京讀書したことがあるので、その恩を謝するために洪武三十一年に來京したことを記しているのであって、決して姑魯妹が三十一年に入監したとは記してはないのである。仲原善忠が洪武三十一年を姑魯妹の入監年としたのは、「中山沿革志」の誤読によって導引した見解であると考える。すなわち、三十一年入監説は誤りであると

16:09
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2021年09月17日(金)
【女官生姑魯妹】
○女官生姑魯妹

「琉球入学見聞録」巻三、官生(病故附)の項で藩相は姑魯妹について「姑魯妹、中山國人、入学之年闕(諸録誤以姑魯妹、爲官生、荒誕殊甚」と記し、汪楫・徐葆光・周煌の各々の使録で姑魯妹を女官生としているが、それは荒誕殊に甚しいものであり姑魯妹は女官生ではない、と諸録を批判している。一体、姑魯妹は汪楫・徐葆光・周煌等がいうように女官生だったのだろうか、それとも藩相が批判しているように女官生ではなかったのだろうか。そのこと及びその入監年を考察するのが本稿の趣旨である。
先ずはじめに、沖縄の先学は姑魯妹についてどのような見解をしているかを見ることにする。「沖縄一千年史」で真境名安興は次のように書いている。
『明史に「廿九年春使を遣はして来貢す。山南生の國學に肄ふ者歸省す。其冬復來る。中山亦塞
マ マ
官の子二人、及び女官生姑魯二人先後して來り業を肄ふ。其の華風を感慕すること此の如し。」とありて、亦女官生のことをいへるも、支那清朝の琉球官學教習藩相の著はせる琉球入学見聞録(巻三)を見るに「姑魯妹中山國の人、入學の年闕くとあり、下に諸録誤って姑魯妹を以て女官生となす荒誕殊に甚だし」として之を否定せり。蓋し或は然らん』と。
真境名安興は藩相の姑魯妹女官生否定説に「蓋し或は然らん」と同調する見解を示しながらも、完全には否定はしていないようである。沖縄の先学達の中で姑魯妹についての評価見解をしたのはこの真境名安興が最初であるが、真境名安興
の評価は推量の域を超えてはいない。
ところが、真境名安興より後の歴史研究者である仲原善忠が姑魯妹についての見解をその著作である「官生小史」で姑魯妹の入監年を洪武三十一
ママ
年と断定した上さらに『「明史」「中山沿革史」等女子ト誤ル。「入学見聞録」ソノ他ハ否定ス』と記し、姑魯妹を女官生とする説をほぼ完全に否定し、且つ真境名安興が明らかにしなかった入監年を三十一年としている。
真境名安興・仲原善忠よりさらに下って最近の研究者である阿波根朝松の「琉球育英史」に至ると、姑魯妹が女官生であるという説を完全に否定し、おまけに、妹は音借であるとする見解まで附するようになるのである。
以上、代表的な沖縄の官生の歴史を研究した歴史家の見解を見たが、姑魯妹についての沖縄での最初の評価者である真境名安興は姑魯妹を女官生ではないかもしれないとの推定の段階の見解を示したが、時代が下って、後の研究者である仲原善忠・阿波根朝松の時代になると、女官生ではないと断定的あるいは完全に姑魯妹女官生説を否定し、その見解は変化してきている。最近(昭和六十二年現在)はほぼ完全に阿波根朝松の見解が流布しているようである。
では、藩相を起点とした阿波根朝松の代に至って完璧に定着した観のある姑魯妹女官生否定説は、ほんとうに正当な見解なのであろうか。姑魯妹が女でなかったという評価は正しいのだろうか。
沖縄における研究者が、姑魯妹が女官生ではないとしたのは藩相の「琉球入学見聞録」の記述をその根拠にしたものである。そして、姑魯妹が女官生であるという根拠になるものもまた中国側の史書・史料である。従って、姑魯妹が女官生であるのか否かを考察するには中国側の史料の検討をする必要があろう。
ところで、姑魯妹について記した中国側の史料には「明実録」「野獲編・琉球女入学」「中山沿革志」「中山傳信録」「琉球國志略」「明史稿」
「古今圖書集成(方輿彙編裔典第一百巻琉球部)」「明史」「續文献通考」「琉球入学見聞録」等がある。一応、参考までに、その「資料」を載せて置く。
@「明実録」
洪武三十一年三月戊申朔
(戊申)、琉球國中山王察度、遣其臣亞蘭匏、押
撤都結致・毎歩結致・撤都奴侍、貢馬及黄胡椒等物、其世子武寧、貢如之、先是、其國遣女官生姑魯妹、在京讀書、至是、謝恩來貢、
A「野獲編」(琉球女入学)
洪武二十九年、琉球國入貢、先是、其國山南王
ママ ママ
遣其姓三五郎等及寨官之子麻著里等入大學、既三
年歸省、至是、復與貢使善佳古耶等來、乞仍入大學許之、至三十一年、其國中山王察度。遣其臣亞蘭匏等、貢馬及方物、先是、其國遣女官姑魯妹、在京讀書、至是、來謝恩、因而入貢來朝、外國如朝鮮號知詩書者、間游國學、或至登第、然未聞婦人、亦來中國誦向慕華風、至此、真史策未見
B「中山沿革志」
三十一年、王遣亞蘭匏等、貢馬及硫黄、世子武寧貢如之、女官生姑魯妹偕入謝恩、以昔常在京讀書也、太祖賜鈔有差・・・・
C「中山傳信録」
三十一年、王遣亞蘭匏等、貢馬及硫黄、世子武寧貢如之、女官生姑魯妹偕入謝恩、以昔常在京讀
書也、太祖賜鈔有差
D「琉球國志略」
三十一年、王遣亞蘭匏等、貢馬及硫黄、世子武
寧貢如之、女官生姑魯妹偕入謝恩、以昔常在京讀
書也、三月、太祖命以冠帯賜王、並賜臣下冠服。
E「明史稿」
山北王怕尼芝已卒、其嗣攀安知、二十九年遣使來貢、令山南生肄國學者歸省、其冬、復來、中山亦遣寨官子二人、及女官生姑魯妹二人、先後來肄業、其感慕華風如此
F「古今圖書集成」
洪武二十九年、琉球入貢、遣其國人及女姑入國學肄業。
按明外史琉球傳、洪武二十九年春、山北王遣使來貢、令山南生肄國學者歸省、其冬、復來、中山亦遣寨官子二人、及女官生姑魯妹二人、先後來肄業、其感慕華風如此
G「明史」
山北王怕尼芝已卒、其嗣攀安知、二十九年春遣使來貢、令山南生肄國學者歸省、其冬、復來、中山亦遣寨官子二人、及女官生姑魯妹二人、先後來肄業、其感慕華風如此
H「續文献通考」
二十九年春、令山南生肄國學者歸省、冬復來、中山亦遣寨官子二人、及女官生姑魯妹二人、先後來肄業、其感慕華風如此
I「琉球入学見聞録」
姑魯妹、中山國人、入学之年闕(諸録誤以姑魯妹爲女官生、荒誕殊甚)
さて、右の中國側史料に於ける姑魯妹の記述内容を分類すると、(一)明実録系、(二)明史稿系、(三)野獲編系、(四)琉球入学見聞録系の四つに大別出来るようである。
明実録系とは「明実録」「中山沿革志」「中山傳信録」「琉球國志略」等の系列の史料群で、その記述の特徴は、姑魯妹を女官生であると明確に規定してはいるものの、その入監年は記さず、先に在京読書した恩を謝するために洪武三十一年に來京したとする点にある。
明史稿系とは「明史稿」「古今圖書集成」「明史」「續文献通考」等の系列の史料群で、その記述の特徴は、姑魯妹を女官生であると明確に規定し且つ入監年を洪武二十九年としている点にある。
野獲編系とは、「野獲編」で、その記述の特徴は、女官生の存在を明史稿系の如く記述してはいるが、それが真実であるか否かを「真史策」で確認できないとして懐疑的に捉えているが否定はしていない点にある。
琉球入学見聞録系とは「琉球入学見聞録」で、その記述の特徴は姑魯妹を女官生であることを完全に否定し、入監年は「入學之年闕」として不明としている点にある。
右の中國側の史料に於ける姑魯妹の記述の系譜を図示すると次の如くになる。
姑魯妹 女官生であることを肯定 明実録系 「明実録」「中山傳信録」「琉球
國志略」(入監年の明記なく、三
十一年に在京讀書した恩を謝するた
めに來京したことを記す。)
明史稿系 「明史稿」「古今圖書集成」「明
史」「續文献通考」(入監年を洪武
二十九年とする)
女官生を懐疑的に捉える 野獲編系 「野獲編」(姑魯妹についての記述
及び入監年の記述は明実録系と同じ
女官生であることを否定 琉球入学見聞録系 「琉球入学見聞録」(「入
監之年闕」とする)  中国側の史料を見ると姑魯妹女官生肯定説の起点となるものが「明実録」で、女官生否定説の起点にあるものが「琉球入学見聞録」が唯一のものであることが分る。従って、姑魯妹が女官生であるか否かは「明実録」「琉球入学見聞録」のいずれの記述を信じ採用するかを検討することによって明らかにされるだろう。以下これを考察してみたい。
「明実録」について和田久徳は「沖縄大百科」で次のように記している。
「中央地方の諸官庁の記録類を主材料にし、根 本資料にもとづいて記述されているため『明実 録』は明朝に関する歴史研究にとっても重要な 史料である。」と。
この重要な史料でる「明実録」にももしかしたら誤謬はあるこも知れない。もし、仮に誤謬があるのであれば当然重要な史料であっても訂正されなければならないだろう。しかし、「明実録」は根本資料によって記述された史料価値の極めて高いものであるだけに、その記載の内容を否定・論駁するには、それに相当する史料価値の高い史料を引用活用して論理的に考察して訂正すべきであろう。もし、論理的な考証に基づいた論駁がなければ、「明実録」に記載された記述を妥当なものとして採用すべきである、と考える。
しからば、「琉球入学見聞録」の著者藩相は、姑魯妹についての「明実録」の記述を論理的に考証し、その記述内容を論駁しているかというと、そうではないのである。「明実録」に匹敵する史料を駆使して論理的に考証して論駁する手続をすることなく、ただ「姑魯妹、中山國人、入學之年闕(諸録以姑魯妹爲女官生、荒誕殊甚)」としているのみである。この藩相の記述は「明実録」記載の姑魯妹女官生肯定説を覆し得るような論理的考証はなく、非論理的な推量の域を出ない見解を披瀝したものであり、「明実録」女官生肯定説を覆し得たとはいえない。従って、「明実録」記載の姑魯妹女官生肯定説を妥当な見解であるとみるべきで、藩相の姑魯妹女官生否定説は棄却されるべきであると考える。
藩相を起点とし、阿波根朝松の代に至って完璧に定着した観のある姑魯妹女官生否定説は、藩相の説が否定棄却されたのであるから、藩相の説を根拠にして導引された沖縄の歴史家達の説く姑魯妹は女ではないという評価は当を得たものとはいい難く、次のように修正されるべきであろう。
『姑魯妹は「明実録」に女官生であると明記されているから、女官生である』と。
姑魯妹が女官生であることはほぼ確認できた。次に入監年について考察してみたい。姑魯妹の入監年について諸書の見解を示すと次の如くになる。
明実録系・・・入監年の記録なく三十一年に先 に入監したことに対する恩を謝 する爲に來京したことを記す。
明史稿系・・・入監年を洪武二十九年と明記。
野獲編系・・・入監年は明実録系と同じ。
琉球入学見聞録系・・・「入監之年闕」
沖縄の研究者
真境名安興・・明史を引用して洪武二十九を入        監年とする。
仲原善忠・・・洪武三十一年を入監年とする。
阿波根朝松・・仲原説を踏襲して洪武三十一年        を入監年とする。
姑魯妹の入監年については右に見たように、入監年不明、洪武二十九年、洪武三十一年の三つ説がある。果たしてどれが入監年として当を得た見解かを考察したい。
まず、仲原善忠の洪武三十一年入監説から考えることにする。
仲原善忠は「官生小史」で姑魯妹の入監年を洪武三十一年としているが、何を根拠にしているかをまず明らかにし、それによって導かれた見解が妥当なものであるか否かを検討していくことにする。
仲原善忠は「官生小史」で姑魯妹について記すに「明史」「中山沿革志」「琉球入学見聞録」を参照しているようであるが、「明史」は入監年を洪武二十九年としているので、「明史」は入監年の批定には参照されてない。また、「琉球入学見聞録」は「入監之年闕」としているので、これも参照されてない。従って、残りの「中山沿革志」に拠っていると考えられる。
「中山沿革志」は「明実録系」の史料で、これからは洪武三十一を姑魯妹の入監であると導きだすことはできない。先にあげた史料をみても明らかな如く、確かに「中山沿革志」の洪武三十一年の条に姑魯妹のことを述べてはいるが、そこには前に在京讀書したことがあるので、その恩を謝するために洪武三十一年に來京したことを記しているのであって、決して姑魯妹が三十一年に入監したとは記してはないのである。仲原善忠が洪武三十一年を姑魯妹の入監年としたのは、「中山沿革志」の誤読によって導引した見解であると考える。すなわち、三十一年入監説は誤りであると

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2021年09月17日(金)
【刑死にあった山南生官生賀段志】
刑死にあった山南生官生賀段志

段志毎は洪武26年入監の中山王察度派遣の官生である。この段志毎の入監の時に他にもう一人いてその人は刑死にあった説く書があるが、果たして洪武26年には二人の官生が入監していたのであろうか。もし二人入監していたとしたら、誰と誰であったのだろうか。刑死に遭ったのは誰であったのだろうか。それらを明らかにするのが目的である。

諸書によると洪武26年入監官生について次のように記している。

『明実録』・・・洪武二十六年四月乙亥朔 (辛卯)琉球國中山王察度、遣̪使壽禮結致、貢馬及方物、幷遣使寨官子段志毎、入國學讀書

『中山沿革志』・・・二十六年、遣使麻州等貢方物、已又遣使壽禮結致等、貢馬、偕寨官子段志毎、入國子監讀書、太祖命賜夏衣靴襪、秋又賜羅絹衣一襲、榕漏撞詆朧瓠∋明А∈佗ヒZ

『中山世譜』・・・二十六年己酉、王遣麻州等、貢方物、又遣壽禮結致等。貢馬、偕寨官子段志莓(ママ)、入監讀書

『女官生姑魯妹』・・・三五魯毎が洪武二十六年に入監(明実録と明史をもとに私が導いたもの)

以上の記録から見て洪武26には段志毎一人が入監したものと思われる。ところが阿波根朝松の『歴代官生氏名年表』を見ると

37段志毎にしみ外一人 1392 洪武26 元中10 中山王察度 寨官ノ子 遣明使者 見聞録には段志毎と表記。他の一人は詔書をしたるため彼の地で刑死(仲原氏覚書)

また仲原善忠の『官生小史』所載の『官生年表』を見ると、洪武26年入監官生のことを次の如く記している。

3 洪武26(1393) 中山王察度 段志毎 寨官ノ子 「明使」(ママ)二四(ママ)トアリ 中山生一人死刑、詔書ヲ非難シタ罪

右の阿波根朝松と仲原善忠の両氏の説に若干の問題があるので考察を試みたい。

仲原善忠の『官生小史』の洪武26年の入監官生段志毎の備考に『中山生一人死刑、詔書ヲ避難シタル罪』とあるのは、『明史(巻223 外国4 琉球傳)』の明年(洪武26年)『中山両入貢、又遣寨官子、肄業國學、是時國法嚴 中山與山南生 有非議詔書者、帝聞 置之死、而待其國如』に拠っていると思われるが[注1]この『明史』の記録からは、仲原の説くように中山生一人が死刑になったという解釈は生まれえないと考える。何故なら『明史』を素直に読んで明らかな如く『明史』には入監」したのは中山の段志毎のみであり、そして「中山與山南生」が刑死になったことを記しておるのです。決して中山生のみが刑死にあったということことは書かれてはいないのである。従って仲原の『官生小史』の備考欄に於ける誤解によって生じた説を踏襲して、洪武26年入監者を段志毎 外一人とした阿波根朝松の『備考欄』の説も誤りだといえよう。

では右に記した『明史』をどの様に解釈」すべきだろうか。『明史』で「是時」とは」、洪武26年である。前に見たように洪武26年には中山官生段志毎が一人入監しているのみである。なのに『明史』では「中山與山南生」記している。これをどう読むのかだが、中山生と山南生とが刑死されたのであるから 洪武26年に段志毎が一人入監したときには、すでに山南生がいたということになるだろう。

さて洪武26年現在に於いて在監かんして琉球ンお官生にどのような人達がいたのどろうか。『明實録』に拠ると、日孜毎(中山生)[注2]、濶八馬(中山生)[注3]、仁悦慈(中山生)、三五郎尾(山南生)、實他盧尾(山南生)、賀段志(山南生)及び26年入監の段志毎(中山生)の7人が在監している。この7名のの中に、詔書非議して刑死されたものがいたのであり、決して洪武26年の入監者が2人いてその中の一人が刑死されたのではないのである。

何名が刑死されたのかしる術もないのであるが、三五郎尾(山南生)、實他盧尾(山南生)の2人は『明實録』に洪武29年

に帰国したとあり、仁悦慈(中山生)も『明實録』に『洪武30年8月庚辰朔、賜國子監琉球生仁悦慈等羅衣、人一襲』とあるから、この3名は刑死されなかったことは確実である。

洪武26年現在在監していた7名の中、右3名を除いた残り日孜毎(中山生)、濶八馬(中山生)、賀段志(山南生)段志毎(中山生)の4人中いずれかが刑死されたと思われるが、刑死されたのは中山生と山南生であることからすると、その内山南生は賀段志(山南生)しかいないので賀段志は当然に刑死されたであろうと考えられる。しかし残り中山生が何人処刑されたのか分からないが、『明實録』に帰国したという記録がない、日孜毎、濶八馬、段志毎も処刑されたと考えるのが妥当であろう。

まとめ

1 段志毎は洪武26年に入監したが、その時の入監者は彼一人であった。

2 賀段志(山南生)は処刑されたと考える。

3 帰国した記録のない中山生である日孜毎、濶八馬、段志毎等も処刑されたと考えられる。

4 仲原 阿波根の説に誤解を検証した。

以上、小生なりに結論を出してみた。諸兄にご批正を賜ることができたら幸甚に存じます。

[注1]仲原善忠は『官生小史』の作成要領を次の如く記している。「氏名の検出は、中山世譜、明史(列傳)、清史稿(列傳)を中軸とし、他の諸書を参考にした」と、洪武26年段志毎の備考欄で『明使』とあるのは『明史』の誤植と思われる。また、備考欄に記されている事件は、野口鐡郎も説くように明史以外に中国の史書、琉球の史書は傳えるところがない。以上の理由により「明史」に拠ったとしたのである。

[注2]日孜毎(中山生)、濶八馬(中山生)が明らかに洪武26年まで在監していたとの確証はないが、彼らと同にきた仁悦慈が洪武26年現在において在監しており、又洪武29年まで、官生の帰国のことが見えない。以上のことに拠って在監していたとしたのである。

[注3]もし賀段志が処刑されたとすれば、洪武26年11月壬寅朔、壬寅以後である。何故なら、その時までは賀段志は生存していたからである。


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2021年09月11日(土)
【球陽琉球に雪が降る》】
*2021/8/25*  《球陽琉球に雪が降る》


太陽がギラギラと輝き蝉がミーンミーンと五月蠅く鳴いていた1855年のある日のことである。とあるがガジマル木で子供たちが木登りをしている。そこへ歳のころ7〜80歳にもなろうとする顎髭を蓄えた物知りお爺さんさんがやって来た。お爺さんがやって来たので、子どもたちはお爺さんから話を聞きたいとせがんだ。

お爺さんがどっこいしょと木の根元に腰をおろすともう子供たちははお爺さんのの前に座り込んで、お爺さんから話を聞こうと目を輝かせていた。

わらびんちゃー:お爺さん面白い話を聞かせて。

お爺さん:昨日話したからもう話するのはないが、どうしますかね。

わらびんちゃー:なんでもいいよ。面白い話をしてよ。お願いします。

お爺さんはわらびんちゃーにせがまれたので嬉しそうな笑顔を浮かべながら

お爺さん:それではこの琉球にに降った雪の話をしましょう。あなたたちは雪を見たことがあるかね。

というとわらんちゃーを見回しました。わらびんちゃーは胸弾ませ眼はきらきらと輝いていました。お爺さんは嬉しくなりその話を始めました。

お爺さん:ないだろうな。私も雪を見たことはない。しかしな、雪は知っているぞ。それは琉歌に『梅でんすぃ雪に積みらりて後どぅ 匂いましゅる浮世でぃむぬ』と雪が詠われ、また『四季口説』にも『冬はあられの音そえて、軒端の梅の初花の、色香も深く見てあかぬ、花か雪かといかで見分けん、雪の降る枝に咲くやこの花』と雪が詠われているぞ。ところで、あなたたちはこの琉球に雪が降ったと言うのを信じますか。

と言うとわらびんちゃーを見回した。わらびんちゃーはお爺さんをの顔をじーっと見ている。わらびんちゃーの怪訝そうな表情を見て取ったお爺さんは、話続けた。

お爺さん:雪といういうものは、この琉球では、日本旅、あるいは唐旅をした者たちが、そこで見たあるいは聞いた雪を琉歌にしたもだけにしか見られないと思っていたのだ。確か今から10年ぐらい前のことであるが、人の噂でが北谷間切に雪が降ったということはきいたことはあったが、霰か雹かが降ったのだぐらいにしか思ってなかったんだよ。しかしわたしは勉強が好きで昔ののことを色々と調べたんだよ。そしたら有りましたありました。琉歌以外にね。それが北谷間切で雪が降ったという噂話も本当だったんだろうと思ったんだよ。

お爺さんはそこで腰からきざみたばこを取り出して一服しようとした時突然熱心ににお爺さんの話を聞いていた子が

「お爺さん、私にはこの暑い此処琉球に雪が降ったとはどうしても納得できません。何か証拠となるようなものはありますか。」と聞いてきた。

お爺さん:あるんだよ。証拠が有るんだ。ちゃんとした証拠が有るんだよ。

さるでぃきやーわらび:その証拠とはなんですか。

お爺さん:うん、いったーがー見ることは出来ないが琉球には『球陽』という琉球にで起こった色々なことを記録したものがあるんだが、それに載っているんだよ。

でぃきやーわらび:お爺さんその『球陽』にはどいう風に書かれているのですか。

お爺さんはこのわらびに先ほどから疑問を素直に出すでぃきやーだからこの子にはもう少し具体的に詳しく話さなけらば納得しないだろうなと思った。最初は琉球にも雪が降ったことがあるよということだけを話すだけに止めようとおもったが、でぃきやーの熱心に感心した。そこで詳しく話始めました。

お爺さん:そうか詳しく聞きたいのか。ではもう少し話してあげるから、聞き逃しのないように注意して聴くんだよ。わかりましたね。『球陽』を調べると1774年正月27日に久米島に雪が降ったということが書かれていますが、これが琉球で最初の記録なのである。それによると久米島仲里村ででは正月27日から天気が悪くなり雨が降り続き、28日に辰刻というから午前8時頃になって雪交じりの雨に変わったが、降りやんで草木の葉を見るとジャーガル土のようになって枯れた、と言うことが記されていた。

でぃきやーわらび:久米島に降ったことはわかりました。それでは久米島以外は記録はあったのですか。

お爺さん:あるとも、あるとも。その次には1815年12月9日に伊平屋島に雪雹が降ったとあるんだよ。その時は雪が7cmほど積もったようだよ。そのため植えた芋は全部腐れてしまったという。まだまだあるぞ。伊平屋島に降った翌日というから1815年12月10日にまたまた久米島に降ったという記録がありますね。これが琉球に雪が降った『球陽』の3番目の記録だよ。その時も伊平屋と同じように約3?ぐらいの雪が積もり かずら 稲の苗の外たくさんの農作物が枯れて大きな被害だったそうだよ。それから4番目として沖縄本島南部の大里 南風原 東風平 佐敷 真和志 小禄 兼城 高嶺 玉城 摩文仁 豊見城 真壁に降ったという1843年2月の記録がある。まだあるよ。それからね5番目に当たるが、つい最近のことでといっても10年ごろ前のことであるが。北谷間切にも雪が降ったんだよ。さっきも言ったが人から聞いたんたんだよ。わしは今までこの暑い琉球に雪が降ったことは信じていなかったが今は本当に降ったんだなと思うよ。どうだねわらんちゃーこれでも信じられんかね。

わらんちゃーはお爺さんの話を聞いて何か不思議であった。蝉の鳴き声はまだ五月蠅かった。太陽はまだかんかんと照り付けていた。この暑い琉球に雪が降ったという。最初わらんちゃーはお爺さんの話を聞いても、もしかしたら本当ににこの琉球にもに雪が降ったんだと思うようになっていた。そして10年前というと自分たちが生まれたころのことなのだということを。もしかしたら誰かから聞けるかもししれないなー、おとーにきいてみよう。と考えているようであった。かんかん照り照り付けていた太陽に雲が掛かり少し日差しが弱くなっていた。その時一人のわらびが立って次の様に言った。

できぃやーわらばー:お爺さん 私はお爺さんの話を聞いてだんだんこの暑い琉球ににも雪が降ったことがあるかもしれないなと思うようになってきました。しかし、私が外のどぅしぐわぁに話したら全部が全部納得して信じてくれるかどうか心配です。だから他人に話しても納得して信じて貰えるようにもう少し詳しく知りたいのですが、『球陽』『琉歌』以外の方法で調べるものを教えてくださいませんか。

お爺さん:おうそうか。信ずるようになったか。オジーは大変うれしぞ。ところでお前は仲々賢いねーじんぶんもちだねー感心したぞ。しかしこれで話を終わろうと思っている。わしがここで話しても良いのであるがこの後はおぬしらが自分で調べた方がいいと思うよ。

できぃやーわらばー:お爺さんからもう少し詳しく聞きたかったのに後は自分たちで調べなさいとは、お爺さんもちょっと意地悪だと思います。しょうがないから調べる手がかり方法などを教えてくださいませんか。お願いします。

太陽がまた顔を雲から出し輝きました。そして暑くなった。

お爺さん:そうか オジーは意地悪か。そおじゃ おじーは意地悪だと言うとハッハハッハと大笑いして続けた。

お爺さん:そうだな 手がかりになるであろうから『組踊』に雪払いというのがあるので調べるといいだろう。それから『琉歌』にも雪を詠ったものがいくつかあるからそれらを全部集めるといいだろう。次にこいつは難解中の難解なものだが『おもろそうし』という奴がある。これは今のお主等には意味が分からないかもしれないが、それでも調べるときっと為になるだろう。それから鶴についても調べるといいよ。鶴については必ず調べた方がいいよ。鶴という鳥は寒い所に住んでいるんだよ。鶴がいるところはは寒いというわけだよ。もし琉球に鶴がいたらどうだろうね。

できぃやーわらばー:鶴が琉球にいるとしたらこの琉球が寒かったということがかんがえられます。

お爺さん:そうだ だから鶴のことを調べた方がいいよといったのだ。

わらばー:鶴以外にもそいうことがわかるものがあるんでんですか。

お爺さん:そうだね。草木なども調べるといいね。

と、その時突然大きな声で「お爺さん」という者があった。今まではただじーっお爺さんーや他人の言うことを聞いてばかりでおとなしかった子だった。

おとなしいわらばー:お爺さん 私は雪を見たことがないので、それってどいうものですか。

お爺さん:あ々そんなことか。わしは何ごとかとおもったぞ。雪を見たことはないなら、どいうものかわかりっこないよね。よーし、ではお主に聞くが雨はわかるね、ほら空から降るあの雨だよ。

おとなしいわらばーが頷くのををみてさらに続けて言った。

お爺さん:雪というものは雨みたいに空から降ってくる雨と同じだが、雨とはちがうぞ。そうだな、とてもとても小さな粒が集まって米粒ぐらいになってサラサラしたものが、寒い時に天から降ってくるものだよ。それが解けると水になるそうだ。その雪について調べてみるのもいいね。雪はどういう時に降りどこで降るのかを調べるのもいいね。何しろわしも雪は見たことがないのだよ。お主たちが大きくなって、唐旅や大和旅ができるようになったら見ることも調べることももできるだろう。

できぃやーわらばー:私は大和旅したことのある人から聞いたことがあるんですが、雪が降ると草とか花とかは枯れると言うのですが本当ですか。

お爺さん:そうらしいぞ。雪が降ると農作物もつくれなくなるそうだよ。伊平屋 久米島で雪が降った時には植えた稲や稲の苗が枯れたというが本当に雪が降ったために枯れたり或いは腐ったりしたと思うんだ。わしは。

できぃやーわらばー:もしも琉球に雪が降ったとしたら、農作物が枯れて生活するのに困っただろうと思います。だからお爺さんが『球陽』に雪が降った記録があるとおっしゃっていましたが、その時に雪が降ったとされる地域は大変困ったと思います。私はその時のその地域の様子を調べればきっと、琉球も雪が降ったかどうかの証拠を探すことができるとおもいます。

お爺さん:なるほどね、雪が降ったら農作物が腐るのは生活に困る。その時その地域での生活に困ってらかどうか調べそうして困っていたのかを考えようという訳だね。いい考え方だと思うがこれをどいう風に調べようかということだね。

できぃやーわらばー:はい さっき『球陽』に載っている話をしてくれたじゃありませんか。きっと『球陽』の中にそのような事例があると思います。だから『球陽』について調べたらいいかとおもいます。

お爺さん:そうだね。もしかしたら『球陽』中にお主がいう事例の記録がされているかも知れませんね。だが『球陽』はお前たちにはまだ読めないよ。難しいよ。もう少し学問に励んでからそれを調べて見るのもいいね。ああいい所にことにきがついたね。だが『球陽』以外に琉球のことを記録したものがあるからね。それか聞くところによると、西洋というところには色々科学が発達しているらしいから、西洋の科学も勉強すると雪について何か面白い発見があるかもしれなしよ。

と言って、立ち上がった。そして「今日の話はうっぴまでぃやくとぅまたやー」と言いつつ杖をついて帰って行った。蝉は五月蠅く泣いていた。わびんちゃーは「明日も話聞かせてくださいね」と見送った。それから木登りを先ほどと同じように遊び興ひた。お爺さんはとある坂の方まで来ると振り返りわらびらんちゃーを振り返り手をふっていた。わびんちゃーは木の上でてをを振りながらあちゃー遊びましょうと答えた。お爺さんは満足そうに、また杖をつきはじめた。

1856年のとある夏のことであった。



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