藤間静波



藤間静波(ふじませいは 1960年8月21日生)
 [連続殺人犯]


 神奈川県生まれ。幼い頃から女の子や内気な子に対して虐めるなど粗暴の性格であった。母親は藤間をかばい溺愛していた。しかし、妹が生まれると母の愛情は出来のいい妹に移っていき、藤間は家庭から疎んじられる存在となった。中学卒業後、職を転々としながら、1977年に事務所に侵入した罪で逮捕されて試験観察となるも、翌年ひったくりで再逮捕され少年院に送致。出所後、家族と同居するも喧嘩ばかりで、中でも妹に対して猛烈な暴力を振るっていた。1981年4月、家出をして、少年院時代の仲間A(20歳)が住んでいた社員寮に転がり込む。やがて藤間もその会社に就職するが、間もなく二人は会社を辞め、ひったくりをしながら生計を立てアパートを転々としていた。1981年10月5日、Aに金を盗まれて激怒した藤間は、横浜市戸塚区中田町のキャベツ畑でAをメッタ刺しにして殺害。すぐに重要参考人として警察に呼ばれるが、藤間の母親が嘘の証言をして釈放されてしまう。

 1981年11月20日、藤間は女子高生(16歳)を通りで見かけて一目惚れして、猛烈にアタックしてようやくデートするも、彼女には交際する気がないことを知ると、一転、愛情が憎しみに変わり、ストーカー行為や無言電話などを始める。家に押しかけてくる藤間に、女子高生の家族もいいかげんにしろという態度に出るようになり、とうとう彼は一家殺害を計画、文化包丁や小刀を購入したり、刺身包丁を盗んだりして準備を始める。一家殺害を計画しているところ、藤間は少年院時代の仲間B(19歳)に出会い、Bから犯罪で一儲けしないかと誘われ、犯行計画を告白。最初は躊躇していたBだが、結局は共犯となることに同意。やがて1982年5月27日夕方、藤間は女子高生宅に押し入り、女子高生と妹(13歳)とその母(45歳)を殺害し、電話線を切断して逃走。女子高生は20ヶ所も刺され、妹の腕には文化包丁が、母は小刀が背中に突き刺さったままだった。Bは脅えてただ傍観してるだけだったという。犯行の際に負った傷の手当てのため、タクシーで二人は藤間の家に帰宅。母親の手当てを受けながら藤間は3人を殺したことをあっさり告白。すぐに親は自首するように説得するも、警察に言ったら殺すという捨て台詞を残してBと共に関西方面に逃走。6月5日、兵庫県尼崎市でBと空き巣をやった後、「気の弱いBのことだからいつ警察に密告されるかわからない」として、口封じのためメッタ刺しにして殺害。6月14日に埼玉県大宮市で逮捕されるまで、埼玉県の工事宿舎で寝泊りしながら、群馬県の工事現場で働いていた。

 逮捕直後は犯行否認をしていた藤間だが、6月23日に犯行自供する。3件5人の殺人罪と10件被害総額約400万円の窃盗罪で起訴された。1982年10月12日、横浜地裁で初公判。1988年3月10日、地裁で死刑判決(すぐに控訴)。閉廷直前、「何か言いたいことはあるか?」と裁判長から聞かれた藤間は、暴力団幹部の名前を挙げる。すぐに裁判長が制止させたが、藤間は薄笑いを浮かべながら傍聴席にいる報道陣に向かって両手でVサインをした(裁判中も度々、報道陣に向かってVサインをして、新聞や週刊誌で報道されていた)。1991年4月23日、藤間は拘置所から控訴取り下げ書を提出する。しかし、弁護士は「まともな精神状態ではない」と異議申し立てをし、1995年に控訴取り下げは無効であるとする最高裁の決定が出され、東京高裁で審理が再開される。2000年1月24日、東京高裁でも一審の死刑判決支持。控訴取り下げ及びその無効についての争いが影響し一審判決から約12年を要する長期裁判となった。2004年6月15日、最高裁で「わずか8ヶ月間に5人を刃物でメッタ刺しにするという執拗、残忍な行為で社会に与えた衝撃は大きい」として上告棄却され死刑が確定した。

 2007年12月7日、東京拘置所で刑死。鳩山邦夫が法務大臣に就任してから初の死刑執行であり、同日に執行された他2名を含め、死刑執行日、死刑囚の氏名、犯罪事実の概要、執行場所が法務省より公表された。それまで死刑執行が行われても、ごく一部の限られた死刑執行のみ新聞やテレビで報道される程度だった。

 2007年12月7日死去(享年47)





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