李珍宇


李珍宇

李珍宇(イ・ジヌ 1940年2月28日生)
 [殺人犯]


 東京都亀戸の朝鮮人集落に生まれた在日朝鮮人2世で、日本名は金子鎮宇といった。三男三女の次男で、日雇い労働者の父親はアルコール中毒で前科があり、母親は聾唖者だった。同居するおじも前科8犯のスリだった。一家は日本人社会から疎外された上に、朝鮮人部落の中でも孤立した二重の疎外構造の最低辺で、その家庭は極貧で劣悪な環境であった。小学生時代は、金がなく遠足にも行けず、中学生時代は、教科書が買えないので筆写して勉強に励んだ。成績は優秀で生徒会長も務めた。読書意欲が旺盛で、特に文学を好み、ドストエフスキーなどを愛読していた。しかし、その暮らし故か窃盗癖があり、図書館からの大量の書籍の他、現金・自転車の窃盗を行い、保護観察処分を受けた。中学卒業後は、朝鮮人差別によりなかなか就職ができず、やむなく朝鮮人の経営する零細な町工場などで働き、月収はすべて家に入れていた。一方、向学意欲を満たすため、東京都立小松川高等学校定時制に通っていた。

 1958年4月20日、自宅近くを通りかかった23歳の賄い婦をレイプし、絞殺。その後も死姦した。李はこの事件の経緯を「悪い奴」という小説に仕立て、読売新聞社の懸賞に応募した。この小説は、事件の詳細な状況(被害者を男子同級生に変えてはいたが)だけでなく、自身に向けられていた民族差別についても記されており、私小説といえるものであった。

 同年8月17日、プールで泳ごうと思い自身の通う東京都立小松川高等学校に来たところ、屋上で同高校に通う16歳の女子学生が読書をしていたため、よからぬ感情が芽生え、彼女をナイフで脅そうとした。しかし大声を出されたため首を絞め殺害し屍姦、遺体を屋上の鉄管暗渠に隠した。李は8月20日に、読売新聞社に犯行声明の電話をかけ、女子学生の殺害と遺体遺棄現場を示した。ところが、警視庁小松川警察署の捜査員が付近を探すが見あたらず、イタズラ電話として処理された。続いて翌21日に、李は小松川署に更に詳しく遺体遺棄現場を示す電話をかけた。捜査員が調べたところ、同高校の屋上で女子学生の腐乱死体を発見した。

 その後李は、被害者宅や警察に遺品の櫛や手鏡を郵送した。更に読売新聞社へは反響を楽しむかのように公衆電話ボックスから30分にも及ぶ電話をかけた。なお警察はその逆探知に成功したが間に合わず、身柄は確保できなかった。しかし、この時の通話は録音され、8月29日にラジオで肉声が全国に放送されると、「声が似ている」という多くの情報が寄せられた。また、発音が特徴的だったことから「下町育ちの朝鮮人の少年」という線でも調べられ、まもなく李が有力な容疑者として浮かび上がった。そして公衆電話ボックスで電話をかけていた李の目撃証言が得られ、事件発覚から10日後の9月1日、李は逮捕された。李は笑って「とうとうやって来ましたね。やはり完全犯罪は敗れましたよ。後に残る両親や兄弟が本国へ送還されるようなことのないよう考えてくれ」と捜査員に話したという。逮捕前、一部の新聞により実名報道がおこなわれたことから、少年法の問題が議論された。

 李は犯行時18歳であったが、殺人と強姦致死に問われ、1959年2月27日に東京地裁で「少年の各所為は、いずれの点からみても、天人ともに許さざる凶悪非道なものである。よって少年に対しては、刑事処分が相当と認める」と死刑が宣告された。二審もこれを支持、最高裁も1961年8月17日(女子学生の命日)に上告を棄却し、戦後20人目の少年死刑囚に確定した。

 事件の背景には貧困や朝鮮人差別の問題があったとされ、大岡昇平ら文化人や朝鮮人による助命請願運動が高まった。犯人とされた李は自供したが物証はなく、一部では冤罪説も喧伝された。李は拘置所でカトリックに帰依の洗礼を受けるが、被害者たちに対しては「彼女たちが自分に殺されたのだという思いは、ベールを通してしか感じることができない」と罪の意識を感じることはなかった。

 翌1962年8月には東京拘置所から宮城刑務所に移送(当時東京拘置所には処刑設備がなかった)され、11月26日に刑が執行された。

 1962年11月26日死去(享年22)





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