ジュリサ・ゴメス



ジュリサ・ゴメス(Julissa D'anne Gomez 1972年11月4日生)
 [アメリカ・体操選手]


 テキサス州サンアントニオ生まれ。ジュリサは体操を始め、10歳のころには彼女の属するレベルの州大会で2位に入っていた。サンアントニオでの練習では物足りなくなったため、1982年に一家は揃ってアメリカの体操選手養成の中心地であるヒューストンに引っ越した。ジュリサは有名な体操指導者、ベラ・カロリーにその才能を認められ、彼のジムに入った。カロリーの指導は厳しいものであり、彼を始めとするジムの指導者たちは意識的に少女たちの対抗心を煽り、成績順に順列をつけ、生き残るのは最強の選手のみという雰囲気を作り上げていた。指導者たちは時に少女たちに対して聞くに堪えない暴言を浴びせたり、痛みに耐えかねて泣いたという理由で暴力をふるってジムから放り出したりしていたが、父母たちはジムの指導者たちに抗議するようなことはしなかった。その理由は、体操選手として成功するためにはカロリーの指導に勝るものはない上に、今まで娘に投資してきた資金を無駄にしないためであった。

 ジュリサは体操の技術を向上させていったが、次第に積極性は失われてゆき、心の内を見せなくなっていった。また、ジュリサの体には、カロリーのジムに入って以来常に痛みが付きまとうようになっていた。足首の疲労骨折に始まり、腱鞘炎、膝の腱の故障と続き、最後は膝の捻挫と進んだ。カロリーはそのような状態のジュリサに対しても容赦することなく、彼女がカロリーのもとで体操を続ける意志を持ち続けているかどうかを探っていた。ジュリサは不満や恐怖を口にすることなく練習に励んでいた。しなやかで優雅な身のこなしを生かして平均台種目を得意としたが、瞬発力を必要とする跳馬は苦手だった。ジュリサのコーチ陣は、苦手な跳馬を克服するために、当時の女子体操跳馬の技で最も難度の高い「ユルチェンコ」を習得させようと試みていた。この技は、助走の段階でロイター板に対してロンダート(側方倒立回転跳び1/4ひねり後向き)から後転跳びを行い、後方抱え込み宙返り後に着地するもので、1982年にソビエト連邦の体操選手ナタリア・ユルチェンコが発表したものであった。ユルチェンコは、「ツカハラ」(側転跳び1/4ひねり後方かかえ込み宙返り)ほどの技術を要しなかったが、着地の正確な地点と確実性、そしてタイミングが求められる技であった。ジムで一緒だった選手たちは、ジュリサが跳馬に自信を持てずにいることに気づいていた。跳馬に必要な確実性をジュリサは持っていない上に、ロイター板への着地点が定まっていなかった。そしてカロリーはジュリサに対して「いつかロイター板で失敗するから注意しろ」とも言っていた。「ユルチェンコ」は危険な技だが、瞬発力に欠けるジュリサのような選手が高得点を上げるために必要な技だった。実際にジュリサはいくつかの試合で「ユルチェンコ」によって高得点を得るようになっていた。

 ソウルオリンピックが1年後に迫り、練習は厳しさを増していった。ジュリサの受けるストレスは日増しに重くなり、耐え切れなくなった彼女はカロリーに自分の心境を訴えたが、返ってきたのは冷淡な反応だった。この出来事の直後、1987年の春にジュリサは膝を捻挫した。医者の診断は1か月の休養だったが、ジュリサはジム通いを止めなかった。カロリーのジムでは、発熱や水疱瘡、骨折や捻挫は練習を休む理由として認められていなかった。1987年初夏、ついにカロリーはジュリサに「最後通告」を与えるという手段に出た。それは膝の捻挫をかばっているジュリサに対して、他のトップ選手と同様な練習をするか、ジムを辞めるかという選択を突き付けたのであった。その日、ジュリサは母親に「カロリーなんて大嫌い」と言い、もうジムには戻りたくないと泣き出してしまった。両親は、1ヶ月分の基礎指導料や段違い平行棒の個人指導料などの名目で、カロリーに1000ドルを支払ったばかりであった。ジュリサは全米ランキングで13位にまで順位を上げ、ソウルオリンピックの選考会を控えていたため、新しい指導者探しが急務となった。母親はジュリサのためにミズーリ州ブルースプリングスの体操指導者、アル・フォングに電話を掛けた。フォングにとっても、ジュリサのような才能ある選手を指導するのは願ってもないことだったので、1988年2月にジュリサは単身でブルースプリングスに引っ越した。フォングはジュリサの跳馬演技を見て、技術的な問題があることにすでに気づいていた。ジュリサは「ユルチェンコ」の実施時に、ロイター板の端から10センチメートルから12センチメートルのところとされる「安全地帯」に着地していなかった。そこでフォングは、ジュリサの助走と跳び方を手直しし、一定の改善が見られたと判断して、1988年5月に東京で開催される国際スポーツフェアに彼女を派遣することを決めた。東京に出発する前の週末に、サウスダコタ州で競技会があった。競技会でのジュリサは、特に跳馬で見事な演技を披露し、「ユルチェンコ」は最高の出来栄えで9.7の得点を上げた。

 しかし、国際スポーツフェアに出場するため来日したが、1988年5月5日の跳馬種目個人決勝で、助走に入ったジュリサはロイター板に対してロンダートに入り、踏み切った時に体のバランスが崩れ、左足では踏み切ったものの右足は端に滑って床に突っ込んだ。ジュリサは演技を続けようとしたものの、猛スピードで前頭部から馬の脇腹に突っ込むような体勢になってしまい、首の骨が損傷した。何とか身体は馬を飛び越えたものの、ジュリサはマット上にばったりと落ちた。彼女はすぐに病院に運ばれたが、首の骨が折れ首から下が完全に麻痺しており、九分九厘治らないと診断された。両親が日本で娘に面会を果たした際、ジュリサは意識があったが、脳をひどく損傷していて、発作を繰り返すたびに悪化していき、その日の夜中に昏睡状態に陥った。

 ヒューストンに戻ったジュリサは、市の中心部にあるメソジスト病院の集中治療室に入った。事故から4ヶ月が過ぎた9月に、病院の医師は両親に対して、できることはもう何もないと告げ、長期の介護をしてくれる施設への転院を勧めた。両親はジュリサを自宅で介護することに決め、必要な器具をすべて設置した。最初の1年間は、両親は24時間勤務の看護婦を雇用することができたが、2年目になると金銭面での負担が大きくなり、看護婦が雇えなくなった。両親は綿密なスケジュールを立てて24時間体制でジュリサの介護にあたった。ジュリサは昏睡状態を脱してはいたが、たいていは眠っているか虚空を見つめているかの状態だったが、時には目を見開いたり落ち着きのない表情を見せたりし、声を上げて泣くこともあった。体重は63.5キログラムと倍ほどに増えていて、かつての面影はなくなっていた。

 自宅療養を始めて3年近くたった1991年8月、ジュリサは感染症に罹って入院することになった。ジュリサの病状は悪化していき、肺の中の老廃物除去のためにもう1台機械を繋がなければならない状態にまで至った。そこで両親は、延命措置を断念することを決意した。3日間、両親はジュリサのそばで過ごした。8月8日、医師が臨終を告げた時に、母はジュリサの体を抱きかかえた。今までは人工呼吸装置のチューブが支障となって、娘を抱くこともままならなかった。ジュリサは8月10日に、ウッドローン墓地に埋葬された。ジュリサの事故を契機として、同年のソウルオリンピックからロイター板と跳馬の隙間を埋めるスペーサーマットが使用され、踏み外した場合の衝撃を緩和させる措置が取られた。なお導入当時は任意の使用とされていたが、2001年度以降はこのスペーサーマットの使用が義務づけられている。

 1991年8月8日死去(享年18)


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