カイソウ



カイソウ(1941年生)
 [競走馬]


 カイソウは1941年、北海道の錦多峯牧場で生まれた。2歳時に札幌のセリに出され、建築業を営む有松鉄三に9000円で落札された。母・第二ベバウは軽半種ながら帝室御賞典(小倉)優勝馬(全12勝)だった。

 久保田金造のもとに預けられたカイソウは3歳になった1944年4月23日、京都競馬場の芝1600メートルの競走でデビューした。ここは2着に敗れたが、5日後のレースで勝利を挙げる。その後ほぼ休むことなく走り続け、9戦6勝の成績を残して日本ダービーに挑んだ。東上に伴い橋本輝雄が騎乗し、東京競馬場での前哨戦に勝利する。2400メートルのレースで、評判馬であったクリアヅマに大差を付けてのレコードタイムでの勝利であった。

 この年は太平洋戦争の戦況が悪化していたこともあり、日本各地では続々と競馬の開催が中止となった。横浜をはじめ阪神、札幌、函館、新潟、福島と閉鎖され、東京と京都でのみ「能力検定競走」として存在していた。そのような状況であるから、この年の日本ダービーは観客は一切おらず、軍人や馬主など関係者200人あまりが見守るなかで行われた(日本ダービー史上もっとも観戦者が少ないレースといわれている)。騎手の橋本は当時を振り返り「スタンドは無人同然でいかにも寂しかった」と語っている。馬券の発売もなく、人気もまったくわからなかった。カイソウは重馬場のなか、第3・第4コーナーで先頭に立つとそのまま逃げ切り、2着のシゲハヤに5馬身差をつけて圧勝し、初の北海道産日本ダービー馬の誕生となった。

 その後カイソウは半年ほど休養し、一戦を経て12月8日の長距離特殊競走(現:菊花賞)で二冠に挑む。カイソウはこの競走で1位に入線したが、カイソウを始めすべての馬が2周目第3コーナーで競走コースを間違えたためレース不成立というアクシデントが起こった。これは、この年の菊花賞が前年の外回り2周から外回り→内回りと周回するように変更されたものの、変更内容が騎手に伝えられておらず、前年同様のコースを走行したために発生したが、結果として、その後のカイソウの運命を大きく変える出来事となった。

 長距離特殊競走後、カイソウは一戦走るが6着に終わり、現役最後のレースとなった1級種牡馬選定では12着と惨敗した。母方の血統にトロッター(スタンダードブレッド)の血が混じっていることもあって種牡馬に選出されず、乗馬となった。陸軍により一軍馬として徴用され、名古屋の第13方面軍司令官兼東海軍管区司令官であった岡田資の乗馬になったのち、1945年5月14日の名古屋大空襲に巻き込まれて行方不明となったとされるが、その最期は定かではない。

 1945年5月14日死去(享年4)


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