伊藤健太郎



伊藤健太郎(いとうけんたろう 1916年12月28日生)
 [プロ野球選手]


 千葉県出身。旧制千葉中学校に進み野球部に入部した。1931年には強打でチームを牽引し南関東大会決勝で優勝、千葉中学校の甲子園初出場に大きく貢献した。千葉中学校卒業後は、社会人野球の名門、東京鉄道局(現・JR東日本硬式野球部)に入り、藤本定義監督の指導を受けた。1935年にプロ野球チームとして大日本東京野球倶楽部(東京巨人軍)が結成されると、9月に東京鉄道局と数試合対戦することとなり、東京鉄道局は巨人から2勝を挙げた。その直後に巨人の監督三宅大輔が解任されると、東京鉄道局の藤本監督が巨人の監督に招聘されたが、このとき藤本とともに巨人へ入団したのが外野手の伊藤とエース前川八郎である。

 伊藤はプロ野球の世界でも強打を誇り、ほとんどの試合で5番に座った。最初のプロ野球リーグ戦が始まった1936年の2試合目(7月3日)に初めて4番打者として先発出場し、3打数2安打2打点で巨人の公式戦初勝利に貢献した。なお、通算17試合で4番に座っている。1936年の各シーズンでは、伊藤は精彩を欠いたが、翌1937年春のシーズンから本来の強打を発揮し始めた。伊藤のキャリアのハイライトは1938年で、春秋いずれのシーズンも打率5位の好成績を収めている。しかしこの年限りで応召し、一旦巨人を退団した。

 伊藤が巨人に復帰したのは1942年のシーズンである。打率6位とブランクを感じさせない打棒を見せたが、翌1943年、戦時色が濃くなるとプロ野球選手も軍需産業での労働が強いられ、野球が満足に行えなくなったことに不満を抱き、伊藤は他の選手とともに巨人を退団。その後、軍に入隊して東南アジアへ派遣された。そして1944年7月26日、グアム・マンガン山において27歳で戦死した。

 伊藤が在籍した9シーズンで巨人は7回の優勝を果たしている。伊藤は持ち前の鋭い振りで本塁打や長打を量産したが、戦時中の粗悪で飛ばないボールを考慮すれば驚異的な強打者だったといえる。また、伊藤は非常に寡黙な性格としても知られ、それを象徴するエピソードとして「ホームラン打ち直し事件」がある。ある日、甲子園でホームランを打ったが、審判の誤審でファウルとされた。すると伊藤は抗議するでもなく黙って打席に戻ると、次の一球を再び同じゾーンへホームランを放ち、初めから何にもなかったような静かな顔でダイヤモンドを一周してベンチに帰って来たという。

 1944年7月26日死去(享年27)





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