吉川潔



吉川潔(きっかわきよし 1900年1月3日生)
 [軍人]


 広島県出身。父は漢学者。旧制広陵中学(現・広陵高等学校)を卒業後、海軍兵学校を受験するが身長と胸囲不足で不合格。口惜しさから器械体操と陸軍被服廠での積荷作業で体を鍛え上げた。翌1919年兵学校に合格。兵学校時代は成績も下の方で目立たなかった。1922年6月、海軍兵学校卒業。

 この後、吉川は終生駆逐艦と共に過ごす。「長月」の水雷長などを経験後「春風」「弥生」「山風」「江風」と四つの駆逐艦長を経験。1939年11月、海軍中佐。1940年11月、第二水雷戦隊第八駆逐隊「大潮」駆逐艦長に補され、40歳で太平洋戦争に臨む。既に4隻の駆逐艦の艦長を歴任。恐れを知らない豪胆さと、決して偉ぶらない人柄で部下からの信望を集めた。兵学校を身長不足で一度落ちたように、交戦の際には特製の踏み台の上に立って指揮を執り、また部下を飛び上がるようにして殴っていたといわれる。しかし部下に対する思いやりの深さは人一倍で、部下はみな彼を慕い、この艦長の為ならという気風が艦内に漲っていたという。平時には差たる光彩を放つことはなかったが、戦いの切所において卓抜な能力を発揮した代表的な指揮官の一人といわれた。

 「艦長がいちいち艦と運命を共にしていたら、たまったものではない。艦は3年もすれば出来るが、艦長が出来るまでには10年以上はかかる。誰もが艦と運命を共にしていたら、誰が戦争をするんだ!」との台詞を口癖にしていたといわれるが、言葉とは裏腹に艦と運命を共にすることとなった。

 1942年2月19日、バリ島沖海戦で吉川が最初の戦功を挙げた。ロンボック海峡を哨戒中に巡洋艦2、駆逐艦3からなる連合軍部隊と交戦し、オランダ駆逐艦「ビートハイン」を撃沈した他、巡洋艦3隻中破、駆逐艦3隻小破の戦果を挙げた。同年5月「夕立」駆逐艦長。同年9月4日、ガダルカナル島に味方陸兵の揚陸任務を遂行した後、夜明けまで行動時間があると判断した吉川は、単身本隊から離れ帰路の途中にあるルンガ泊地に進入、二隻の敵艦を発見すると猛然と二隻に襲い掛かり相次いで沈没させると、他に敵艦がいないのを確認して帰路に着いた。

 そして同11月12日夜半、第三次ソロモン海戦における破天荒の敵陣突入戦法で、その名を不朽のものとした。吉川率いる「夕立」は、僚艦「春雨」と共にガダルカナル島飛行場砲撃を企図して出撃した主力部隊の右前方の占位して進撃。ルンガ岬沖に待ち伏せしていたカラハン少将の米艦隊と遭遇。至近距離まで近づき反航戦になるやの瞬間、吉川の「夕立」は取舵をとって前方に割って入った。「春雨」もこれに続き前方の日本艦隊の主力との間合いを図りつつあった米艦隊は、いきなり猛突進してくる二隻の駆逐艦の衝突を避けようとパニックに陥り、日本艦隊の先制砲火に見舞われた。さらに吉川は艦を反転させると日本の主隊と交戦を開始した敵艦隊の中にもぐり込んだ。「春雨」は直進して分離したが、単艦となった「夕立」は、軽巡洋艦「アトランタ」に魚雷二本を命中させて航行不能に陥らせ、次いで至近距離から旗艦「サンフランシスコ」に多数の命中弾を浴びせてカラハン少将を葬るなど、阿修羅の如く暴れ回った。真暗かつ煙幕で「夕立」は敵味方からの多数の弾丸を受け航行不能となったが、この海戦における吉川駆逐艦長の働きは、その旺盛な攻撃精神といい、卓抜した戦闘技法といい、まさに水雷戦隊の華と称えられた。それどころか世界の海軍史を通観しても、これに匹敵する事例を他に見出せないともいわれる。

 同月末、横須賀に帰還。負傷もあり兵学校教官の内命を受けたがこれを辞退し、前線勤務を強く希望。同年12月、望みは叶えられ新造駆逐艦「大波」艦長に発令され再び硝煙渦巻くソロモン海に出撃。しかしこの頃からレーダーを有効に活用し始めた米軍に翌1943年11月25日夜、ニューアイルランド島南端でのセントジョージ岬沖海戦にて、アーレイ・バーク大佐指揮の米駆逐艦隊の先制攻撃を受け応戦をする事も出来ず撃沈された。「大波」の生存者は一人も無かった。

 吉川は戦死後、一駆逐艦長としては異例の二階級特進の栄誉を受け提督・海軍少将に列せられた。日本海軍は、一も二もなく吉川の昇進を決定し全軍に発令したといわれる。エリートコースとは無縁の中堅指揮官ながら、抜群の働きで「不滅の駆逐艦長」と称され、その名声を今に留める。真の武人と呼ぶにふさわしい海の男であった。

 1943年11月25日死去(享年43)





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