景浦將



景浦將(かげうらまさる 1915年7月20日生)
 [プロ野球選手]


 愛媛県出身。実家は材木商を営み、少年時代は小柄で痩せていたため、初めは野球ではなく剣道に打ち込んでいた。後に甲子園の強豪校である松山商業学校に入学するも、2年生まで剣道部に所属していたが、後の景浦の長打力の源はこの剣道稽古で鍛え上げた強靭な手首と足腰にあるといわれている。3年生の頃、野球部でメンバーが不足するという事態に陥り、当時の指導者であった後藤二郎から誘われて野球部に入部。その打球の鋭さや投げる球の速さによってすぐに頭角を現し始めた。

 甲子園に出場し、1931年の春の甲子園ではベスト8、夏の甲子園ではベスト4。1932年の春の甲子園では楠本保率いる明石中学を接戦の末に勝利して優勝。夏の甲子園では決勝で中京商業に延長11回サヨナラ負けを喫して準優勝に終わった。その後、立教大学に入学し、1年生ながらリーグ戦で打者としても長打力を発揮した他、投手としても4勝1敗の好成績を残し、立教大学の優勝に貢献した。

 1936年2月28日、立教大学を中退し大阪タイガースと入団契約する。大きなリンゴを一握りでつぶせる握力を引っ提げて、初代4番サードのスラッガーとして打棒を振るい、タイガースの中心打者として東京巨人軍の沢村栄治と名勝負を繰り広げた。人員不足から投手としてマウンドにも登った。投手としては、重いシュートを武器に1936年秋季に防御率0.79で最優秀防御率、6勝0敗の勝率10割で最高勝率を獲得。

 1937年、サードの4番打者に転向し、首位打者(秋)、打点王(春)1938年(秋)と群を抜いた活躍を見せ、初代プロ野球日本一と翌年の日本一連覇を牽引した。沢村をもってしても抑えられない存在として、当時東京巨人の監督であった藤本定義が「史上最強打者」と評していた。1937年春季、投手としては規定投球回数を満たし防御率0.93で沢村に次ぐ2位。同年秋季は打率.333で首位打者。最優秀防御率と首位打者の双方を記録したのは現在に至るまで景浦が唯一である。1938年春季に2度目の打点王。守備でも強肩でピンチを救った。1940年に戦地へ1度目の応召。1943年に復帰、以前通りの長打力を発揮したが、守備では兵役中に過度の手榴弾の投擲によって肩を痛め、主に肩の負担が少ないファーストを守るようになった。

 実家の家業を継ぐため同シーズン終了後に引退。翌1944年に2度目の応召。当初は満州で従軍し、大相撲力士の前田山英五郎が慰問で虎林市に滞在していた折に、訪問してきたときには歯が抜けてとても痩せていたため、愛媛県の同郷でもあった前田山は当初景浦だとは信じられなかったという。

 1945年5月20日、「フィリピン・カラングラン島で戦死」と戦後、実家の遺族に送られた戦死広報には書かれているが、実際は部隊が全滅したため、生存者がなく、病死・餓死とも言われているが詳細は不明。松山市に建立されている墓碑と上記の戦死広報によると、最終階級は曹長であった。尚、実家の母の計らいで最後に戦場に赴く前に結婚していたと言う。後日実家に骨壺が届けられたが、弟の景浦賢一と甥の景浦隆男はインタビューで「石ころが3つ入っていた」「こんなものが人ひとりの命なのか……」と語っている。東京ドーム敷地内にある鎮魂の碑に、彼の名前が刻まれている。1965年、野球殿堂入り。水島新司の漫画『あぶさん』の景浦安武のモデルとなった。

 1945年5月20日死去(享年29)


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