立花芳夫



立花芳夫(たちばなよしお 1890年2月24日生)
 [陸軍軍人]


 愛媛県出身。私立金光中学卒を経て、1913年5月、陸軍士官学校を卒業。同年12月、歩兵少尉に任官し歩兵第12連隊付となる。1916年9月から翌年1月まで陸軍戸山学校体操科で学んだ。1923年8月、歩兵大尉に進級。1924年3月、歩兵第12連隊中隊長となり、松山連隊区副官、第11師団副官、高松商業学校配属将校を経て、1930年8月、歩兵少佐に進級。歩兵第12連隊副官、同大隊長を歴任し、1935年8月、歩兵中佐に昇進し歩兵第44連隊付となる。独立守備歩兵第9大隊付、満州国軍事顧問を経て、1938年7月、歩兵大佐に進んだ。1939年10月、歩兵第65連隊長に就任し日中戦争に出征。宜昌作戦などに参加した。

 混成第1旅団長・第109師団長として父島に駐留中、酒乱で気性の荒い立花は的場末男少佐らと共謀して「日本刀の凄みを披露する絶好の機会」という理由で、撃墜した米軍機から脱出して捕虜となった搭乗員を使って軍刀の試し切りをすることになった。そこで、大木に針金で括りつけた捕虜を予備役応召の伊藤喜久二中佐に師団長命令を発して斬殺させるなどし、さらに軍医に遺体を解体させて、その肉を戦意高揚のためとして焼いて酒宴の肴とした。後の証言によれば、立花は米兵の手足の肉や内臓を食べると、「これは美味い。お代わりだ!」と喜んだという。参謀だった堀江芳孝少佐は立花らの素行にかねてから不安を感じており、捕虜のウォーレン・アール・ボーン海軍中尉を、自分の英語教師として身近に置くことで守っていたが、外出後に戻るとすでに処刑されて喰われた後だった。

 1945年8月15日終戦、9月2日に父島に上陸した米軍は捕虜の行方を調査し、事実を知り驚愕する。的場大隊および関係者を拘束して事情聴取し1946年2月に立花と的場少佐の他、海軍の森国造中将と吉井静雄大佐ら酒宴に参加するなどした27名(29名説あり)をBC級戦犯として起訴した。グアム軍事法廷で、1946年5月から9月にかけて三段階に渡る審判が行われた結果、立花、的場、吉井、伊藤、中島昇大尉ら5名には絞首刑が言い渡され、立花は翌1947年にグアム島で処刑された。立花と的場は処刑されるまでの間、米兵たちの憎悪の対象となり、激しく虐待され続けたという。

 この事件は、飢餓状況で起きた他の日本軍によるカニバリズムとは異なること、陸軍中将という要職にある者が主導したことなどで注目を集めたが、グアム軍事法廷は人肉食を直接断罪したわけではなく、あくまで捕虜殺害と死体損壊として審理を行った。

 1947年9月24日死去(享年57)


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